【大東】すごく雰囲気のある龍間神社。おかげ燈籠に、龍間で生産されていた天然氷の記念灯籠(昭和五年一月吉日)などが。昔、室池で氷生産!?されていたらしい。
龍間神社大東市龍間888番地に鎮座してます。
「太神宮」と刻まれております。今まで見てきた他のおかげ燈籠にあった「おかげ」という文字が、見当たりません。
しかしおかげ燈籠だと情報は得ておりますので、間違いないです。
お蔭燈籠とは伊勢皇太神宮への献燈を意味する。
江戸期には神仏詣りが民衆の間に浸透し中でも盛大を極めたものに御伊勢詣りがあり沿道の人々の喜捨庇護(きしゃひご)をうけて参拝したのでおかげ詣りと呼ばれる。
伊勢詣りの爆発的流行は六十年周期に起こったとされるが、文政十三年(1830)の場合は御蔭詣りと共に河内大和一帯では御蔭踊りと呼ばれる阿波踊りに似た民衆の乱舞があった。
枚方に始まり当地に及び大和に波及し北河内に還流する。
この乱舞流行の鎮まりを見た天保二年(1831)、当村の指導者たちは安堵し、村中安全を祈念して建立した。
尚、当市のおかげ燈籠五基までは文政十二年(1929)のおかげ踊りを契機に作られたものである。
「大東市教育委員会」
取水舎の水受けの石が凄い!歴史溢れる雰囲気を醸し出しております。
村社 龍間神社 (北河内郡四条村大字龍間字前田)
龍間前田にあり本社に天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が末社に大日孁貴(オオヒルメムナノミコト)、天児屋根(アマツコヤネノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)が祀られている。 由緒は不詳明治五年村社に列せられる。 お神楽堂、氏子控え室があり、八王宮と呼ばれている。元禄五年寺社改め帳には龍間村八王子と記載され開基年歴相知り申さずと。境内に天然氷記念の石灯籠、正面入口左横におかげ灯篭がある
階段を登り見える燈籠の狛犬の手前が、天然氷の記念灯籠(昭和五年一月吉日) です。
氏子控え堂の左と右の模様。
正面右側の氏子控え堂には天井を見上げると太鼓と、だんじりにまつわる彫り物と思われるものがありました。
お神楽堂。
本社: 主祭神は天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)[五穀豊穣]。本殿は春日造らしい。
本社左にある末社、左:天児屋根命(アマツコヤネノミコト)[枚岡神社の主祭神]・右:中筒男命(ナカツツノオノミコト)[住吉三神の一神]
本社右にある末社:大日孁貴命(オオヒルメムナノミコト)[天照大神(アマテラスオオミカミ)]
【龍間の氷作り】
生駒山の西麓の龍間地域は、標高が高いため気温が低く、豊富な清水に恵まれた地域だったといわれており、この地域の特性を活かして、昭和の初めごろまで、1月~2月の厳寒期、農家が副業として、良質の天然氷を作っていたのだそうです。 当時の龍間は、80軒程の集落だったそうですが、その内、製氷を行う家が30軒を越え、氷倉も7軒余あったといわれています。作った氷は荷車で中垣内まで搬送し、船に積み替えて、大坂へ送っていたということです。 氷については、『仁徳紀』の中で「熱き月に当たりて水、酒に漬して用ふ」という記述があるそうです。また、食用として用いた他に、遺体の防腐用に使用したり、出来た氷の厚さによって、その年の豊凶を占ったりしていたことが、記録に残されているということです。 なお、『延喜式』には、『讃良』に、二ヶ所の氷室が設けられていたことが、記されているそうです。その二ヶ所は、飯盛山付近ではないかと推定され、『讃良北御室』が『室池』で、『南御室』は龍間であろうと、考えられているということですが、場所の特定は、出来ていないということです。
浪速ぶらり探訪より。
ちょうど上記に挙がった室池にも立ち寄っておりましたので、
室池の氷たくわえ都ゆき
砂溜池(すなだめいけ)、中池(なかがいけ)、古池(こいけ)、新池(しんいけ)の四池から成る。 江戸期までは氷室池と呼ばれ、平安の昔、氷を貯え京へと運ばれて、宮廷の人に使われていた。
今でこそ、道が舗装され道路があってと便利になってます。
昭和初期まで氷生産行われたと言われてますが、これより前の時代の方。昔の方はよく、氷を運び出したなと驚きです。
室池付近一帯の場所
(亮)