【大東】灰塚の細道を迷い歩けば①~灰塚おかげ灯籠と遭遇。

灰塚3丁目道路前に石燈籠が建っています。

 

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◎ 素盞鳴(すさのお)神社掲示板より

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◎おかげ燈籠とその由来

伊勢神宮は、天皇の先祖神として祭られて、平安時代の頃は皇室しか参拝を許されなく、鎌倉時代中ごろに元冠(げんこう)があり、上下あげて国難として受け止め、皇室はもとより一般の武士までが敵国降伏祈願のため参拝した。
江戸時代になって、庶民の旅行も楽になると、「伊勢へ七たび、熊野へ三たび」といわれるように、一般の参拝が盛んになってきた。

しかし、おッぴらに行けないのでひそかに参拝する形をとり、これを「抜け参り」と呼んでいた。
なんとか参拝したいと思うあまり、領主や村役人はもちろん雇主、主人や家族にも告げないで、旅立つものも多かった。旅費の用意も、服装の準備もなく、沿道の施しだけによって参宮した。
つまり黙って家を抜けだすので、抜け参りと呼ばれるようになり、出発は「抜け参り」であって、道中は「おかげ参り」であった。

江戸時代で、おかげ参りが盛んだった年は、慶長19年(1614)から慶応3年(1867)までの14回にのぼるが、このうち特に盛況だったのは、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、文政13年(1830)、慶応3年(1867)の5回であった。

いづれも3月、4月ごろから7月、8月頃までの間に、数百万の参宮者が繰り出し、四国の阿波から兵庫に渡った人々は、西宮から大阪に入り、暗り峠を奈良に向かったが、北河内、中河内の農民を巻き添えにして、河内、摂津を合わせて多い日は、十数万にも上る盛況ぶりであった。このおびただしい人数がでたのは、文政13年(1830)であった。灰塚の農民もこの群衆に巻き込まれ、参宮している。

それを記念して、天保2年2月吉日(1831年)に、おかげ石燈籠を建立したのである。
村の古老の話では、お伊勢さんのお札(ふだ)が、現在の燈籠のたっているあたりに飛んできたので、建立したと言い伝えられていると、言われているが中垣内あたりにお札(ふだ)がとんできたのを、間違って言い伝えたのではなかろうか。

 

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おおよその場所はこのあたりです。

(亮)

nami

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