【大東】瓦堂という跡地。通りがかっても存在が分かりにくいところに…。それでも歴史ある場所。
東高野街道を歩いて、寺川4丁目あたりを通った位のところに、「瓦堂」と呼ばれる場所がありました。
なかなか気づきにくいところに存在しています。地蔵広場と呼ばれてる所ですかね。
寺川地域の今日ある礎を作ってきた悠久の自然と歴史は、地域のいたる所に片鱗を覗かせている。
埋蔵文化財としての考古遺跡、社寺仏閣を含むさまざまな建造物、意私物や道標、街並みや地名そのものが長い歴史を感じさせる場所であります。
生駒山系より流れる渓流の甘田川、近年、雨量の増水や土砂災害から生命や財産を保全する目的に、平成六年(1994)に大阪府枚方土木事務所が寺川(甘田川)渓流保全工事に着手されました。
この渓流は六月に入るとホタルが乱舞し、すぐ東には、金のにわとり伝説の堂山古墳群が存在します。
この地は歴史遺産と自然環境が融合した山里であります。
ここ砂防広場は通称小字名を瓦堂(かわらどう)と古くから言い伝えられ、七堂伽藍の建ち並ぶ霊場でした。
寺川の村名の由来もここからきています。
この寺院は聖武天皇が勅命を下され、神亀四年(732)に、行基(ぎょうき)菩薩が開創し、七堂伽藍が建ち並んでいました。
寺院もいつかの兵火に焼かれてなくなり、礎石のみが残りました。
その後、江戸時代の貞享(じょうきょう)二年(1685)に、寺川や野崎を領した郡山藩の大名が、石を掘り起こし田や畑に開梱いたしました。
この度渓流保全工事で、これらの礎石の残石が大量に出土し、礎石を砂防広場と地蔵広場に(モニュメント)設置しました。
また、用地や地域の自然環境の保全に当たっては、大阪府枚方土木事務所に配慮いただきました。
完成記念を祝詞し、関係者の方々に深甚の謝意を申し上げます。
平成十八年五月 吉日
寺川(甘田川) 渓流保全工事完成記念
大東市寺川自治会
区長 中村 実(龍雲)書
郷土史家 尾崎 明幸 拙文
この説明書き、読んで気付いた方いるかもしれませんが、砂防広場の方にも同じ説明書きがあってそれが地蔵広場に設置されてたとすると、寺院の位置がややこしい事になってるのでは?と勝手に解釈してるの僕だけでしょうか。
歴史的基礎石の残石を砂防広場と地蔵広場に置き分けたって捉えたら、単純に…基はどっち?って思ってしまいますね。
「紫雲山蓮光寺略縁起」(しうんざんれんこうじりゃくえんぎ)の伝わる十林寺に向かう道中、一度砂防広場と呼ばれてる所に行ったことありましたそういえば…。下の説明書きがあるとこが、砂防広場だったと思うのですが。
寺川の通称「瓦堂」に廃寺跡。伝承から古代寺院があったようだ。寺川の瓦堂の背後にある堂山については、もと七堂伽藍を備えた寺院があったが兵火で焼け、その後、毎年元旦の朝、この山で金の鳥が鳴くようになったという伝説がある。
蓮光廃寺の位置 「蓮光寺略縁起」や地元伝説により、その位置が堂山あたりとかんがえられる。略縁起に「川原堂」という所が出てくる、これが堂山の南側にある小字「瓦堂」と推定される。古代において瓦が使用されたのは、宮殿や官衙の一部を除く以外寺院に限られていた。寺院を「瓦屋」と呼んでいた。寺川の「瓦堂」の地名は、かなり古くからここに寺院があったことを物語る。また、布目瓦の破片十数片を採集し、あわせて円筒埴輪や土師器・須恵器の破片なども数片を得ることができた。略縁起の蓮光寺が、この位置に存在したことは間違いないと考えられている。(野崎一丁目にある蓮光寺とは無関係)
「紫雲山蓮光寺略縁起」(しうんざんれんこうじりゃくえんぎ) 聖武天皇が直接命令を下して建てられ、神亀四年(732)、行基菩薩が開創。七堂伽藍。本尊十一面観音菩薩。本堂は南向きで、左に阿弥陀堂があり、その中に聖徳太子のつくった阿弥陀如来・薬師如来・弥勒菩薩の三仏像がまつられている。さらに弘法大師のつくられた仏像をまつる不動堂や大日如来堂などがある。そして東の方には、金堂・講堂・鐘楼堂等があり、西は蓮の花が咲く大きな池がある。
上記記述と内容関係のない野崎1丁目の蓮光寺なのですが、名前が挙がったので寄ってみました。
立派な鐘撞き堂ですね。写真ぱっと見た感じ、鳴らそうとしたら隣の家の壁にあたりそうって思うの僕だけでしょうか。(笑)
こちらはこちらで立派ですよ。
こちらを見学して東高野街道に当たり、瓦堂跡を見にいくのいい運動になりますよ。ウォーキングがてらにいかがでしょうか?
(亮)