【大東】坂道をひたすら上り、北条神社を参拝。運動にもなります。

北条神社に行くまでに、普通の家の庭に結構圧迫感を感じる石碑の数が…。前からなんだろな?と思っておりました。

北条山行者堂というものらしいです。

明治十六年ごろ、不動尊を信仰していた初代の横谷宗吉氏は干天がつづいて、農民らが困っているとき、雨乞いをして慈雨に恵まれ、多くの信者ができてきたので、現地に居を移し、明治三十九年八月には庭先に「役行者石碑」を建てた。昭和五十二年十月には二代横谷誠教氏は「神変大菩薩報恩菩薩宝塔」の石碑を建立。天下泰平・五穀成就・家内安全を祈願している。

大東のふるさとカルタウォークより。

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余談になりましたが、北條神社は大東市北条5丁目2197に所在しております。
凄い坂道を上がって行き写真の(参道 敬神燈籠)を見る前に(参道鳥居 「寛文十二年(1672)」)を見かけるはずだったんですが、見過ごしたようです。

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(鳥 居 「延宝五年(1677) 北条村惣氏子」)を挟む両サイドの燈籠は、天満宮燈籠です。

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 一番古い燈籠 
当社境内に奉納されている燈籠のなかで
「寛文九年(1699)九月吉日 河州讃良郡北条村五郎兵衛」と記されたものが一番古い。

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 北條神社
祭神 誉田別命(品陀別命)・菅原道真公
例祭 十月二十日・二十一日
祭神は京都北野神社の御神木で像(菅原道真像)を刻んだものであると、当社の古記録にある。
即ち時(時:平安時代寛弘年中(1004~1012))の天皇の御詔勅に「北野の神木で神像を作り、漂流地に祀るべし」とあったので数多くの神像を刻み加茂川に流された。 その一体が当村の西の津之辺の浜辺に流れ着いた。その所は森であったので以来その所を明神の森と呼び聖地であるとして、代々お祭りを欠かさなかった。
しかし、この社は平地であるため度々洪水の災いにあった。そこで時代は不明であるが現在地に御遷座された。
 明治に合祀された八幡宮は鎌倉時代に、京都男山八幡宮を当村北條の八幡山に勧請した。
 戦国期の飯盛城時代この八幡宮は武芸上達の神として武運長久を祈願した。
その後江戸時代に四條村が二つに分れ八幡宮は久具領の産土神となった。
明治五年八幡宮、天満宮の二柱が合祀され、北條神社となった。
末社に「善女大龍王」の水神が境内に祀られる。
  所在地 大東市大字北條二一九七

 

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八幡宮燈籠
八幡宮のものが2対4基含まれるが一対になった燈籠にはそれぞれ
「宝暦五年(1755)山屋九郎兵衛・河内屋源兵衛・佐渡屋権兵衛・河内屋清兵衛」
「九月廿二日 大坂願主 布屋源助・虎屋源右エ門・桑名屋和助」などの大坂町人らしい人達の名が記されている。

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狛 犬  「明和九年(1772)  氏子中」

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善女大龍王
神社東側に「善女大龍王」が祀られている。
その由緒は不明だが、社殿の前には宝暦八年(1758)の記銘のある燈籠が一対あり、案内板にあるとおり農業をするにあたって必要な 水の神として信仰されていたのであろう。

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神社すぐ横にも石碑があり、缶コーヒーやお酒などお供え物がされておりました。
神社前の道を少し東へ登ると自然石に「山神」と彫られたものが存在するらしいのですが、これらがそうなのか?遭遇できなかったやもしれません。

山神石:今はその存在さえも忘れ去られているようであるが、 昔は山で猟をしたり、木樵・炭焼き・草刈りなど山で仕事をする人達にとっては、 山を支配する神として崇められ、山路の行き帰りには必ず拝礼したものという。

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※各部の名称説明は、大東我が街より。

 

 

(亮)

nami

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