【大東】大東市に3ヶ所ある菅原神社。そのうち深野北・菅原神社に立ち寄ってみました。
鎮座地は、大阪府大東市深野北1-517。
当社は、平野の座摩神社と同様深野新田開発時鴻池善右ヱ門宗誠という人の開拓によって出来た土地柄、宝永四年以降に当地に移住した農耕者等によって創立されたと思われる。
明治五年村社に列せられた。
◎大阪府神社庁第三支部より。
板書きの文字が薄くて消えかかっており、読めませんでした。これより読めるときに行かれた方の記載がありましたので、させて頂きました。
菅原神社(すがはらじんじゃ)由緒
宝永元年(1704)大和川筋替えにより、深野池(ふこうのいけ)の池水が涸れて葦原となっていたところを、宝永二年より京都東本願寺が新田開発にのりだし御堂○○組織である二日講がこれに応じて入植し、九年余で開拓が完了、当地に難波別院(なんばべついん)の永世○○堂田となった。しかし程なく天王寺屋、そして鴻池家に売却されている。
宝永五年、徳川氏代官萬年長十○他三名の検地・享保四年(○○○○)の再検地による深野新田の石高は二千四百四十二石であった。明治十三年○○河内国深野北となり、字地に西の宮・角部濱・四軒屋・大畑○・生駒があった。
この菅原神社(すがはらじんじゃ)は旧地名では「南方字宮前ハの割」にあり文学の神菅道真公を御祭神としている、祭日は十月二十一日である。創建は江戸時代に中期宝永年間であるが年代は定かでない。当地に入植した祖先が北野天満宮(きたのてんまんぐう)の分神を拝受し、産土神として村人の○○○願い、現在地○○○に鎮座ましましたのである。本殿に○○○優美な○○○○○○江戸期の彫刻の特徴が見られる。現在の拝殿は、○の本殿が覆堂の役目を果たし○○○弘化四年(1747)起の萬記録帳によれば明治初期の修理そして、昭和七年(1932)の完全再建は明らかである。石鳥居には天保十五年○○○の、○○○。
なお、当神社は学問の道達成への御霊験を○○○○氏子○天神とあがめられるごとく、邪気を払い、家内安全、商売繁盛、就学成就、交通安全、そして家運隆盛をまねくと厚く信じられている。
昭和五十五年(庚申年)十月吉日 誌
菅原神社(すがはらじんじゃ)氏子総代
(亮)