【大東】大東市市制60周年記念事業♪シンポジウム『戦国河内キリシタンの広がり』が開催されます。三箇キリシタンはどのように展開したのか…

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大東市市制60周年記念事業
シンポジウム
『戦国河内キリシタンの広がり』

アクロス
(アクロスより引用)

[日時] 6月25日(土)
10:00~16:00 (9:30開場)
※途中お昼休憩あり

[場所] アクロス 4階 多目的室

[定員] 100名

[費用] 1,000円(資料代込み)
※当日支払い

[申込] アクロスにて電話・来館のみの受付
※5月1日(日)より受付開始しています。必ずお問合せください。

[申込・問合せ] 
生涯学習センターアクロス
電話 072-869-6505
FAX 072-870-1405

三箇キリシタンをはじめとする河内、畿内のキリシタンの実態と彼らの九州まで展開する姿を追う。また、近年研究が大きく進展したキリシタン墓碑の河内・近畿・九州の系譜を考える。

 大東市ホームページより引用

アクロス
[講座内容]
◎第一部
『戦国時代の畿内社会とキリシタン』
仁木宏氏(大阪市立大学大学院)
『高石右近の足跡』
中西裕樹氏(高槻市立しろあと歴史館)
『天草の河内キリシタン』
中山圭氏(天草市観光文化部)

◎幕間 ミニコンサート
演奏⇒スリー オブ カイント
(ピアノ・オーボエ・トロンボーン)

◎第2部
『キリシタン墓碑の系譜』
大石一久氏(元長崎歴史文化博物館)
『田原レイマン墓碑の出土状況』
小林義孝氏(摂河泉地域文化研究所)
『京都のキリシタン墓碑』
丸川義広氏(京都市考古資料館)
『東日本のキリシタン墓』
今野春樹(キリシタン文化研究会)

◎まとめ
『河内キリシタンのひろがり』
神田宏大(野崎キリスト協会)

大東市は古くから
多くのキリシタンが居たと言われております。

長慶の家臣で三箇の領主であったといわゆる三箇殿は、結城山城守の子の左衛門尉アントニオの勧めで、ヴィレラ とロレンゾに会った。そして「山上の堅固で、今や畿内を抑えている実力者の所在地」である飯盛城で三箇殿は受洗し、ここにサンチョ=サンガとなったのである。永禄五年(一五六二)の酷暑の頃であったという。さっそく三箇殿は、三箇にあった小庵をキリシタンの聖堂に造りかえた。  三箇はたびたび触れたように、深野池の西の部分に浮ぶ島々から成っており、北から大畑・西の宮・江の口・大箇、それに下野などがあり、それらが南北に連らなって、深野池の水量によっては、三つの島とも四つの島ともなったらしい。三箇城の位置については、地元の伝承では飯盛城の真西にあったというし、飯盛城の出城としての役割りからすれば、深野池を距てた対岸の最も近い位置が考えられるから、従来から三箇城跡といい伝えられている江の口の菅原神社の社地のほかに、大畑が浮かび上って、廃慶岸寺の跡などが考えられよう。西の宮から大畑へ至る道筋は、「城堤」とも呼ばれていたという。ともかく最初に建てられた三箇の教会は、その位置が明らかでないが、三箇城のあった島とは別に、「三箇殿が以前に居住していた島」もあるから、第一の教会の位置は、三箇城のある島とは限らず、この「以前住んでいた島」も考えねばならないだろう。

大東市史 p318 第4章 近世の大東市 「三箇キリシタンの起こり」より引用

◆河内キリシタン 畿内を支配した戦国武将・三好長慶がキリスト教の布教を許可したことから、1563年、居城とした飯盛城(四條畷市、大東市)で家臣が洗礼を受けたとの記録が残る。一時は6000人近いキリシタンがいたが、87年に豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと一気に衰退した。隆盛を極めたのは20年ほどだったとされる。

YOMIURI ONLAINより引用

日本で一番古いキリシタンのお墓が
お隣の四條畷市に有るとも言われているようです。

コレを機に
大東市とキリシタンについて知ることが出来るといいですね

(nami)

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2016/05/31
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